2013年7月31日水曜日

スマホを使いすぎて、バカになっていませんか? 一週間のうち10%は、ネットも本も使わず、自分で考えてみよう








 テクノロジーによって変化するメディアのあり方は、私たちの情報取得のありかただけでなく、私たちの思考プロセスにも影響を与える。例えば、タイプライターが発明されたあと、それを使いはじめたニーチェの文体は変化していったという。なぜそのようになるかというと、脳には可塑性というものがあり、状況に合わせてその機能を変化させていくことができるからだ。技術は私たちの認識のあり方を少しずつ確実に変化させると説いた、メディア論の泰斗、マーシャル・マクルーハンの慧眼には敬服せずにはいられない。
 現代のテクノロジー、特にインターネットが人間の脳にどのような影響を与えるのかについては、多くの研究がされている。いくつかの本のなかで、特にこのテーマに正面から挑んでいる本は、ニコラス・カーの「ネット・バカ」(原題は”The Shallows”)だろう。この本では、インターネットが私たちの脳にどのような影響を及ぼしているのかが述べられている。
 こういった人間の脳の変化に伴う思考力の低下は、かなり深刻な問題として議論されている。今回はそのことについて書いてみよう。

現代社会における私たちの脳

 様々な研究が示唆することは、現代社会において、インターネットを日々使っている私たちの脳は確実に変化しているということだ。
 まず、情報を探す能力や、膨大な量の情報を要約する能力は高くなった。Google検索を駆使して情報を探し出し、それをまとめて、多くの人が(実際にどうかはさておき)「ちょっと賢そうなこと」を言えるようになった。
 また、マルチタスキングも得意になった。これについては、「最新脳科学で読み解く脳のしくみ」という本で、サンドラ・アーモットとサム・ワンが述べているところでもある。私たちは、フェイスブックでチャットをし、Gmailでメールのやりとりをし、ツイッターで流れる情報を見ながら、資料を作るといったことが簡単にできるようになった。
 しかし一部の能力は退化してきている。一言でいうと、深く集中して何かを考える能力が落ちているのだ。
 会議中には自分の携帯のチェックをついついしてしまったり、仕事しながらメールやSNSでのコメントをチェックしてしまったりと、私たちの多くは注意散漫になり、落ち着いて1つのことをじっくりと考えることができなくなっている。分かりやすいまとめサイトのため、文脈のある長い文章を読み込む力も落ちている。情報が検索すればすぐ手に入る環境の中では、何かを記憶し続ける能力も低下している。最近、堀江貴文さんが「ネットの記事は長すぎる。すべてを400文字くらいにまとめたニュースサイトを作りたい」と話していたが、それもこういった私たちの性質の変化に沿ったものであるといえる。
テクノロジーと離れて生きていくことは難しいので、これらはほとんど不可逆的な変化だとはいえ、私たちの思考力の低下はかなり深刻なレベルになりつつあるかもしれない。例えば、インターネットを用いて情報をまとめて一見立派なことを述べても、それはハリボテのような議論構成になっていて、ちょっと突っ込んで話してみたら答えられないことが多くなった。

知識をレバレッジする能力が落ちている

 ここでいう思考力は、いま手元にある知識をてこにして、より高次元の結論を導き出す能力だ。クイズなどで、限られた情報を頼りに考えることを通じて答えを出す能力ともいえる。
 単純化すると、知的なアウトプットの質は、知識量と思考力の掛け算からなっており、きちんとしたアウトプットのためには知識と思考力の両方が一定程度そろっている必要がある。知識だけがあっても、それをきちんとまとめられなかったら、アウトプットはなんだかわけの分からないごちゃごちゃした資料となるだけだ。一方で、いくら思考力があっても、知識に依拠しないアウトプットは単なる自説の開陳に過ぎず、せっかく「巨人の肩の上に乗る」機会があるのにそれを逸してしまうことになる。
 現代で私たちに起こっていることは、知識量の増大とその一方での思考力の低下だ。私自身、子どもの頃に比べて、手に入るだけの情報を手がかりにして答えを出す思考力が落ちているのを痛感することが増えた。昔の人々が少ない知識量と、より高い思考力を持っていたとしたら、両者の積である知的生産の質は一定に保たれているかもしれないが、実際のところはどうなのかは分からない。

思考力を失わないための習慣

 手元の知識をテコにしてより高度な知的アウトプットを導き出す思考力を維持することができれば、私たちは、昔の人たち以上の知的生産をできるかもしれない。素晴らしい機会が目の前に転がっている。

では、どうすれば思考力を維持することができるのだろう。冒頭で述べたように、私たちの脳は日々の生活によって変化するものだ。だからこそ、思考力を維持させたいのであれば、そのための習慣をつくる必要がある。ある人からいくつかの方法論を教わったうち、4つを紹介しよう。
  • インターネットを使わない日を設けること:近年において、コンピューターが膨大なデータの処理を容易にできるようになったことと相まって、ネット上のサービスはどんどん私たちの時間を奪い取るための進化を遂げ、結果として私たちをより注意散漫にしている。毎日ネットなしで暮らしていくわけにはいかないが、休日などはPCも携帯も持たず、ノートとペンだけを持って外出するというのが1つの方法だ。

  • 長い文章を丁寧に書くこと:コンスタントに、字数にして3,000字以上の文章を丁寧に書くこと。ただ字数が多いだけではだめで、単語ひとつ、接続詞ひとつにもこだわって、一定時間をかけて文章を書くこと。というのも、一定の長さの文章を丁寧に書くということは、必然的に自分の考えを深めて整理するという作業を伴うからだ。

  • すぐに検索しないこと:何か疑問が浮かんだときに、すぐに検索せずに、自分で何回か答えを考えてみて、それから検索をすること。いうなれば、クイズ番組みたいに、自分で答えを考えてから、答えを見ること。なぜなら、すぐに疑問に答える仕組みが身近にあると、自分の力で考える力が失われるからだ。

  • 現場に行くこと:インターネットを通じて手に入る情報だけに頼るのではなく、現場に行き、そこで生の情報に触れること。雰囲気、温度、匂いなどネットメディアでは伝わらない大切な情報が現場にはある。そういった現場に身を置いて考えることで、思考はより一段深くなる。
 こういう訓練をしても、私たちが問題に直面したときに得る答えの見た目は変わらないのかもしれない。しかし、しかし、同じ結論を得るのであっても、それが自分の脳をフルに使って考えぬかれたものである場合とそうでない場合では、その後の議論の力強さや、ある分野で得られた知識の他の分野への応用可能性などが大きく異なってくる。

古くて新しい、テクノロジーと思考力の問題

 技術進歩が思考力を衰えさせるという問題は、21世紀的な問題というわけではない。例えば、活版印刷の誕生が当時の人々に与えたインパクトは、インターネットが私たちに与えたそれと同じくらいのものだった。印刷技術の進歩の結果、一部の人だけのものだった本が、至る所に出回るようになった。

世にあふれる本の中で(といっても、現代に比べたらはるかにましだが)、ショウペンハウエルは次のような警鐘を発していた。
読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。
・・・
熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。
「読書について 他二篇(改版)」、岩波書店、1983、127ページ

技術で代替される能力の鍛錬に努めよう

 産業革命は、人間の肉体を代替していった。例えば、交通手段の発達は私たちの脚を弱くした。そして、それに危機感を抱いた人々は走る習慣をもち、自分の身体を意識的に鍛えるようになった。
 情報革命は人間の脳を代替する。この革命は、印刷技術の進歩とは比べ物にならないほどに、私たちの思考力を奪っていくのかもしれない。
 数十年前に先進国に住む人びとが身体を意図的に鍛える必要に直面したように、今後は思考力を意図的に鍛える必要が生じているのではないだろうか。先に4つの例を挙げたが、日常の10%ほどでもよいので、メディアに頼らずに自分で考える習慣をつけてみてはどうだろう。

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