2013年10月3日木曜日

トヨタが再び挑む「1000万台」の鬼門

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2703B_X20C13A9000000/


 トヨタ自動車が「世界販売台数1000万台」という前人未到の壁に近づいている。自動車産業の歴史をひもとけば、この壁を越えようとしたメーカーは大台を目前に挫折してきた。今のトヨタは備えができているのか……
■「中興の祖」の密葬
 名古屋市内の住宅街にたたずむ日泰寺。9月18日の正午過ぎ、トヨタの高級車「センチュリー」や「レクサス」が続々と乗り付けた。喪服姿のビジネスマンたちは車から降りると、神妙な面持ちで寺の門をくぐっていった。
 この日泰寺はトヨタ創業者の豊田喜一郎らが眠る豊田家の菩提寺だ。集まったのはトヨタやグループ会社の経営者ら。前日に100歳で死去した最高顧問、豊田英二の密葬への参列者だった。第11代社長の豊田章男も静かに手を合わせていたという。
 「トヨタ中興の祖」と称される英二が社長をつとめたのは1967年からの15年間。日本もトヨタも右肩上がりで成長していく時代だった。今のトヨタは世界160カ国・地域以上で車を売り、2013年度の販売台数は1000万台に達するとみられている。英二の時代とはケタ違いの規模に成長している。
 ところが、5年前のリーマン・ショック後は、巨大化したがゆえの問題があらわになった。経営スピードが鈍くなりがちな巨大組織と高コスト体質に改革のメスを入れざるを得なくなった。そこからトヨタは変わり、強くなったのか。
 章男の試みはすでに始まっている。
 4月中旬、愛知県豊田市のトヨタ本社内。章男のほか、6人の副社長が集まり、議論を戦わせていた。テーマは、英二が会長時代に立ち上げを指揮した日本生まれの高級車レクサスの米国への生産移管だった。
 「国内生産は持つのか。技術部隊の負担が重くなりすぎることが心配だ」
 「いや、今やらないと、チャンスを逃してしまう」
 足元が円安でも将来の為替リスクを考え、現地生産を徹底するのか。それとも、今の生産体制を守るのか。賛否は大きく分かれたが、最後は「現地化やむなし」の結論でまとまった。
■脱・番頭経営に
 その後、トヨタは、米ケンタッキー工場(ケンタッキー州)でレクサスのセダン「ES」を生産すると正式に公表した。章男と副社長による事実上の方針決定のわずか数日後のことだった。


章男と副社長6人によるミーティングは社内で、「戦略副社長会」と呼ばれ、昨年から月2回のペースで開かれている。その出席メンバーも議論の性格も、トヨタの実質的な最高意思決定機関として社内外で知られてきた「副社長会」とは別物だ。
 今までの副社長会には、名誉会長の豊田章一郎らトヨタの重鎮も出席しているが、形式的な議論の場になりがちだった。出席者は発言せずにいても済んでしまう面があったが、戦略副社長会では、沈黙は許されない。
 関係者によると、章男は議論をリードするというよりも、視点を変えた質問役に回ることが多い。そこから垣間見えるのは、トヨタが「集団経営」に大きくカジを切ろうとしていることだ。経営トップとナンバー2の二人三脚による、過去の「番頭経営」とはまるで違う。
戦略副社長会のメンバーである豊田社長と6副社長(右から、須藤、前川、小平、豊田、小沢、加藤、伊原の各氏、7月、名古屋市中村区)
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戦略副社長会のメンバーである豊田社長と6副社長(右から、須藤、前川、小平、豊田、小沢、加藤、伊原の各氏、7月、名古屋市中村区)
 番頭が会社全体を見据え、時に豊田家に意見しながら、時々のトップが判断していく――。トヨタでは、古くは花井正八(元副社長、会長・故人)や石田退三(元社長・同)、最近では木下光男(元副社長・同)といった番頭の存在感が大きかった。それがトヨタの経営の特徴だった。
 トヨタが直面する問題は時には国際政治もからみ、複雑になる一方。章男自身、「すべてを自分の目で見て、判断を下すのは物理的に無理」と認めている。今や「番頭一人」で足りるはずがない。そんな巨大組織、トヨタをいかに動かすか。
■「片道切符」からの復活組
 章男がまず手をつけたのが、意思決定プロセスの見直し、つまり、戦略副社長会の導入だった。トヨタの経営の仕組みそのものを変えようとする章男の意志は、今年4月に敷いた6副社長の新布陣を見れば、さらに鮮明に浮かび上がる。
 6人の副社長の顔ぶれは、先進国担当の小沢哲、新興国の伊原保守、部品部門を見る須藤誠一、技術は加藤光久、販売を担う前川真基、そして総務や渉外の小平信因。このうち、伊原、須藤、加藤、前川の4人はいったん本体を出た経験がある「出戻り組」だ。関係者によると、この4人は「片道切符」の人事のはずだったが、章男が呼び戻した。
 章男の役員人事を巡っては絶えず、「お友達内閣ではないか」という揶揄(やゆ)がつきまとうが、これらの副社長たちは章男と仕事上の接点がほとんどなかった。新副社長陣は多士済々、章男への直言すら恐れていないという。
 東日本大震災のときの伊原は、トヨタ社内で語り草になっている。

 伊原が調達担当専務として復興作業を指揮していたとき、章男から「サプライチェーンの復旧度合いを説明しに部屋に来てほしい」と求められると、「対策室に紙が貼ってあります。逆に、来ていただけると、簡単に説明ができます」と切り返したという。伊原は物流子会社トヨタ輸送から出戻ったばかりだったが、章男を前に引くことはなかった。
 技術の加藤も筋を曲げない強さを秘める。2003年発売の12代目「クラウン」の開発責任者で、試作車開発のトヨタテクノクラフトからの復帰後、部品の共通化プロジェクト「TNGA」を推進。設計から調達まで見直す大改革だが、関係部署を説き伏せ、12年からの実行にこぎつけた。
 須藤はレクサスなどを生産するトヨタ自動車九州の社長を経験。生産現場の責任者と経営者の両方の視点を備えるという。主に国内販売を仕切る前川は東京の販社を束ねるトヨタアドミニスタの社長を経験。今も地域ディーラーとの重要なパイプ役だ。
 ほかの2人も個性派だ。元経産官僚で資源エネルギー庁長官も経験した小平は外部の客観的な視点をトヨタの経営に加える。ただひとりトヨタ1本で上がってきた小沢は人事や財務が長いが、リーマン後の原価低減活動をリードした。
■トヨタ分割の大計
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 「創業家が右といえば、皆が右を向きがちだ。社長にも直言できるメンバーを集め、けん制する意味合いもある」。あるトヨタ幹部は、戦略副社長会について、こう解説するが、意思決定のプロセスやメンバーを変えただけで、巨大企業のトヨタをうまく操縦できるわけではない。
 それに対する章男なりの回答が、今春の「トヨタの分割」。英二と章一郎が1982年に実現したトヨタ自動車工業―自動車販売の工販合併以来という大規模な組織改編だった。
 トヨタの組織は大まかにいえば、4つに分けられた。先進国を見る「第1トヨタ」、新興国の「第2トヨタ」、エンジンなど基幹部品の開発生産を担う「ユニットセンター」、そして「レクサス」だ。レクサス以外のユニットのトップは副社長が就き、収益の責任を負う。
 「それぞれの持ち場で、社長として仕事をしてもらいたい」
 章男は小沢や伊原らに、こんな指示を出している。副社長たちに対し、最高経営責任者(CEO)である章男のサポート役というより、現場トップの最高執行責任者(COO)としての自覚を持つよう強く促しているのだ。それは、意思決定や経営のスピードを上げることだけが目的ではない。もう一つの意図は、章男の就任前の急失速で見えた「トヨタ流経営」の手直しにある。

例えば、その神髄である「現地現物」。現場を重視する発想は正しいが、それが行き過ぎて「現場の声にすべて従う」という形式にとらわれれば、個別最適に陥ってしまう。
 象徴が2006年に米国テキサス州につくったサンアントニオ工場だった。米国で人気の大型ピックアップトラックの市場を狙うための戦略工場と騒がれたが、リーマン・ショックで事態は一変。大型車の在庫ばかりが積み上がった。
 「今、工場をつくらないとライバルにやられる」
 サンアントニオ工場の建設を決めた当時を知るトヨタ幹部によると、そんな焦りの声が、どんどん米国の現場から届いたという。結果論とはいえ、役員会でも慎重な意見は出なかった。トヨタは、事業規模が大きな米国で、現地にどの程度の権限を移譲すればよいか悩んでいたが、その問題を解決しないまま、投資を決めてしまっていた。
■「現地現物」の死角
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 一方、市場としての注目度が低かったアジアなど新興国では、権限移譲のバランスに悩むどころか、「現地現物」が不十分で、市場環境の変化に対応できていない。シェア3割強と金城湯池だったはずのタイでは、2013年に入り、長く定位置だった乗用車トップの座から陥落。日本でいう軽乗用車に近いサイズの車の人気が高まったが、このサイズの車をトヨタは用意できず、1月~6月はホンダの「ブリオ」に顧客を奪われてしまった。
 インドでは、2010年末に新興国戦略車として投入した「エティオス」が低迷。「価格重視で妥協の産物」(幹部)だったデザインは不興を買っているという。現地のガソリン規制の変更や消費者の嗜好の変化をとらえきれずにいる。
 先進国と新興国。様々な消費者や文化が混在する世界を相手にして、成長と経営効率をどう両立していくか。それがトヨタの最大の経営テーマであり、トヨタ流経営の見直しを急いでいる。
 しかし、1000万台超えはもう目前に迫っている。そして、その「1000万台」という数字は、不思議なことに、自動車メーカーにとっての鬼門になってきた。
 過去には、米ゼネラル・モーターズ(GM)が何度も挑戦したが、実現できていない。日本車の台頭や小型車シフトを軽視した「巨人ゆえのおごり」が致命傷となり、大台に乗る前に経営破綻した。トヨタも07年、1000万台に近づいたが、結局、超えられなかった。それどころか、急成長の裏側で過剰になっていた生産体制や高コスト構造を、リーマン・ショック後の需要減少があぶり出した。

 当時の社長、渡辺捷昭の時代から、トヨタは「全体最適を目指す」とうたっていたものの、「実行の仕組みに乏しかった」(幹部)。ここに来て、章男が経営陣の布陣から組織のあり方まで変えようとしているのは、自分も巨大化するトヨタをコントロールしきれるか焦りがあるからだろう。
 英二は1950年、米フォード・モーターの工場を視察中、その「流れるライン」を見て、品質などを守ることを前提に米国流に生産規模を大きくすることを目指した。しかし、章男時代のトヨタはいったん拡大戦略の足をとめた。
■カローラ工場の変身
 「今後3年間は工場新設を凍結せよ」――。トヨタは今年に入って、成長路線に背を向けたかのような方針を打ち出した。「数字に追われるようにやみくもに工場と車をつくっていった過去」(トヨタ幹部)と決別し、取引先と一緒に生産工程の見直し改革に時間をあてるという。
 大衆車「カローラ」を大量に製造し、モータリゼーションに一役買った高岡工場(豊田市)。高度成長期の1966年にスタートしたカローラの生産に幕を下ろす代わりに、最新鋭の機械が続々と導入されている。需要の変動に合わせてラインの長さを自由に伸び縮みさせられる製造設備で、高岡が「カローラ1車種の大量生産」から「多品種少量生産」の工場に生まれ変わるための投資だ。
 トヨタは、同じ設備をブラジルなど海外工場でも導入している。世界最大の自動車メーカーでありながら、当面は「量を追わない」と決めたのが章男時代のトヨタだ。米リコール問題や東日本大震災からの復興への対処がヤマを越え、トップ就任5年目の今は粛々と足元を固めている。経営改革に精力を傾けられるようになったが、目の前に迫った課題はあまりに大きいからだ。
 ポスト1000万台時代のトヨタづくり――。それは、誰も経験していない。そして、いくら備えを万全にしようと努力しても、未知の難題がどんなかたちで出てくるか分からない。
 史上初である「販売台数1000万台」の称号を手にしたかどうかは、販売実績が固まる来年1月にも判明する。そのとき、トヨタと章男は、新たなスタートラインに立たされる。
=敬称略
(中西豊紀、西岡貴司)



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